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長谷川一夫なみの役者に

小学校5年生に進級する前後のことだった。

学校から帰ると見ず知らずのお婆さんがいて母と談笑していた。

形通り「こんにちは」と僕は挨拶してランドセルを肩から外した。

 

黒ずくめのお婆さんは「息子さんだね。長男かい」と聞く。

僕は「はい」と答えた。

しばらく僕の顔を覗き込んでいたお婆さんは母の方に向き直り

「この子を役者にしたら長谷川一夫なみの役者になるよ」といった。

 

お婆さんが帰った後で母が言うには近所でよく当たると評判の占い師だという。

疲れたようにアパートの前にいる姿を見たのでお茶でもどうかと誘ったようだ。

お婆さんは見料も払わない母に向かってそのとき二つの八卦を見たらしい。

ひとつは僕も聞いた( 僕が役者になったら長谷川一夫なみの大物になる ) ということ、

もうひとつは「いま、貴方たちのために誰かが家を建ててくれている」という話しだったという。

 

子供心にそれらは占いというより現実味のないその場しのぎのでまかせに思えた。

ただし母にも山っ気があったのだろう、何らかの機会があったとき僕は有名な劇団の入団試験を受けさせられた。

そして審査に受かりいざ入団となったものの支度金とか月謝が払えず僕の役者としての未来は完全に頓挫した。

 

しかしもっともあり得ないことが起こった。

母は同じアパートの住人から「松田さんお願いだから一緒に行ってよ。一人だと心細いからさあ」

と誘われ都営住宅の新築入居者の申し込み会に連れて行かれた。

ものはついでとやることがなかった母も型どおりの申込書を提出して帰って来たが、どうしたことか誘ってくれたおばさんは外れたものの、母が抽選に当たってしまったのだった。

 

小学5年生の夏休み中に生まれてこの方、住み慣れた6畳一間のアパートに別れを告げた。

「お婆さんのいうとおり、東京都が私たちの住む家を建ててくれたんだよ」

母はそう信じていた。

そしていたく恩を感じた母は天涯孤独だというお婆さんが病気で入院し亡くなるまで世話を続けていた。

 

 

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