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僕は常務取締役の甥?

僕が最初に勤めた会社は東証一部上場企業のメーカー本社だった。

コネもなく、普通に入社試験と面接を受けて入ったがその後が大変だった。

最初は一ヶ月半ほど工場実習、その後に本社実習そして最後は埼玉県朝霞にある自衛隊へ3日間の体験入隊が待っていた。

 

その頃はまだ創業者の社長が率いていたし体質や時代感覚も古い会社だったが、皆親切だった。

右も左も分からない僕はとにかく早めに会社に出社することにした。

しかしそれが思いもよらないことに発展していくなど知る由もなかった。

 

配属部署に勤務し始めて数日経った後、その大きなフロアーの奥の部屋にいた常務取締役から始業前にいきなり声をかけられた。

「おい、一緒に来い。珈琲を飲みに行くぞ」と...。

常務も出勤が早かったのだ。

 

事情がわからないものの相手は雲の上の常務取締役だ。断るわけにもいかず僕は「はい」と返事をして彼の後に従った。

エレベーターで1階に降り、エントランスを出ると前は車道で向こう側に喫茶店があった。

常務は十数メートル先の信号がある横断歩道を渡らずフェンスを跨いで直接車道に飛び出した。

仕方がないので僕も続いた。

 

喫茶店の席に座ると僕に聞くこともなくお店の人に「珈琲二つな」と注文。

まだ早い時間だからお店に客もほとんどいなかったし困ったのは話題がないことだった。

私は入社したばかりの経験もない文字通りの若造だが、常務はすでに50歳を越えたオヤジだったしなにしろ常務取締役なのだ。

下手なことをいって怒られたり嫌われるのも嫌だったし、そもそも何を話してよいのかも分からなかった。

 

その上、常務は饒舌ではなかったし非常にせっかちだった。

テーブルの上に置かれた珈琲を常務が口にしたのを見てから僕は「いただきます」と飲み始めた。

本当はミルクを入れたかったが常務がブラックのまま飲み始めたので入れるタイミングを失した。

 

初日になにを話したのかまったく覚えていないほど僕は緊張していた。

突然「帰るぞ!」と常務が立ち上がりレジに足早に向かった。

僕の珈琲はまだ半分以上も残っていたが、送れてはならじと慌てて立ち上がって「ごちそうさまでした」と頭を下げた。

帰りも常務は横断歩道を渡らず広い車道を横切って会社に入った。

エレベータホールで数十秒か、数分か...待っていると多くの社員たちの姿が目立ち始め常務に皆が挨拶しながらエレベーターに乗り込んだ。

 

僕はその日はたまたま常務の機嫌がよく、名前も知らない僕を誘ったのだと思った。

それに本音を言えば緊張の極みで珈琲の味もわからないし迷惑なことだった。

しかし専務は次の朝も、その次の朝も「おい、珈琲飲みにいくぞ」と誘った。

いま思うに常務は常務なりに気分転換が欲しかったのかもしれないし皆が怖がって型どおりの挨拶しか交わさないのが寂しかったのではないか。誰でもよいからひとときの相手が欲しかったのかもしれない。

僕は常務と始業前に喫茶店にいくことが習慣になってしまった。

 

回を重ねれば僕も要領がわかって、常務の飲むペースで珈琲を飲めるようになった。

会話も多少はできるようになった。

「おまえの初任給はいくらだ?」

「XXXXX円です」

「なんだ、安いな」

といった可笑しな話しもあった。

 

もっと可笑しかったのは配属部署のお偉いさんは勿論、他部署の部長とか課長までが新人平社員の僕に、

「○○常務と珈琲飲んでる新人はおまえか」などと声をかけてくれるようになった。

なかには気の毒そうに苦笑いしながら「ま、頑張れよな」と肩を叩いてくれる人もいた。

人の噂は面白いというか可笑しなものだ。

いつしか僕が始業前に常務に誘われ珈琲を飲むのは血縁者だから...という噂がたった。

 

その恩恵だったのか、僕は配属先はもとより6年ほど勤務した中で虐められたりすることは皆無であるばかりか、いち早く名前を覚えてもらえた。

300人ほどいた本社勤務の人間の中で名前と顔を覚えて貰うのは大変だったはずだ。

それが (毎朝常務と珈琲を飲んでる新人)というレッテルを貼られたのが幸いしたらしい。

そりゃあそうだろう。

鬼より怖いといわれた常務取締役の甥かも知れない男を粗略に扱ったらどうなるか、みなそれを心配したに違いない。

 

 

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