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父の記憶〜戦争にいかなかった男

 自分が歳をとったからか、最近はやたらと亡くなった父親のことが頭をよぎる。といっても子どの頃は怖いだけの父親であったし、大体が出張の多い仕事で家にいないことも多かった。

 長じては酒飲みで遅くならないと帰ってこない父はどうにも苦手だった。そんな親父が気になる…何故なのか。

 

 父は自分の事を、特に若い頃の話しをしない男だった。どのような少年だったのか、両親はどのような人なのか、どのような夢を持って大人になったのか、そしてなによりも母とどのようなきっかけで知り合ったのか…等など私は父から一度も聞いたことがない。

 世間を知らない少年だった私から見ても父はその時代の多くの人たち同様、生きたいように生きてこられたわけでもなかったことは感じていた。

 ともあれ、戦後の動乱期に自動車部品の仕事を始めてそれが当たり、5, 6年ほどの間札束が箪笥の引出に入りきらないほど詰まっていたという。しかしその後は絵に描いたように失敗し私が物心ついた頃にはやっと食いつないでいたという有様だった。

 

 とはいえ父は無口ではなかった。特に酒が入り機嫌がよいときには仕事の愚痴も含めてよく喋っていたが不思議に心に残るというか、記憶に残るといった話しはほとんどない…。

 特に終戦記念日や長崎・広島に原爆が投下された日といったときそれらが記事となった新聞を広げている父親は置物のようにあぐらをかいて新聞を見つめているだけだった。

 普段機嫌が良いとき、父は新聞を読むというより音読した。

 黙読するのではなく声を出して読んだ。しかし戦争の記事をそうして音読した試しはなかった。

 

 そんな父だったから、戦争にどのように向き合ったのか、従軍したのかなどはまったく知らなかったし本人も話したことは一度もなかった。

 少しずつ父の若い頃の様子が知り得たのはただひとつ、父の兄弟たちと会うときだった。

 父は5人兄弟で男三人女二人、その男兄弟の次男だった。

 一度だけ、その男兄弟夫婦と揃って京都に旅をしたことがあったが、長男はどこか小説家柴田錬三郎のような渋い感じで、三男すなわち父の弟は兄弟で一番明るく剽軽なオジサンでどこかアメリカの国務長官だったキッシンジャーに似ていた。

 

 旅館の丹前をひっかけ、そんな親父三人が朝早く南禅寺の境内を闊歩しているところを写真に収めたことがあったが、皆当時の男としては上背があったこともあり、すれ違う人たちが避けるような迫力があった。

 まるでヤクザの親分衆みたいだった(笑)。

 そして酒が入れば昔の話になる。

 そんな中で次第に親父の秘密も明らかになっていった。

 

 親父は戦争に従軍せず国内勤務だったらしい。

 徴兵検査で軽い結核が見つかり不合格になったようだが、どうにもそれが本人にとっては大きな罪悪感に繋がっていたようだ。

 長男の叔父さんは従軍したが、これまたその時の話しは一言も聞いた覚えがない。

 戦争の話になると一人で明るく喋りまくるのは三男の叔父さんだけだった。

 聞けば詳細は分からないが彼は志願兵から始まって将校まで昇格したらしい。

 

 「純坊(私のこと)、叔父さんの前には数百人の兵隊さんが銃を持って並んでいるんだ。分かるよな。叔父さんは偉いからその後ろで『撃て!』と命令する役だ。勿論敵からは銃弾が雨あられのように飛んでくるんだ。分かるか」

 「うん」

 「でな、叔父さんの前に銃を構えている兵隊さんたちは岩陰に半身を隠したり、地べたに伏して撃つんだ。叔父さんは偉いから敵の動きを見定めて命令をしなくてはならん。だからほとんど立っているんだ。分かるよな」

 叔父さんは「分かるよな」と確認しながら話しを進めるのが癖だった。

 

 「しかし兵隊さんたちはなバタバタと倒れていく。死んでいくんだ。まるで歯が抜けていくようにな」

 「叔父さんはどうなったの」と私が聞くと、ニヤリと笑い、

 「ここでこうして酒を飲んでいるだろう。だから弾に当たらなかったんだ。叔父さんは立っていたんだ、だのに弾が当たらないんだ。物陰に隠れ地べたに伏せている部下たちが先に死んでいくんだ。分かるか」

 その頃になると明るく喋る叔父さんの声が詰まり、目が潤んでくる。

 

 そのときはある種の自慢話と受け取ったが、いま思えばなぜ弾が当たりやすいはずの立っている自分が無傷で部下たちの多くが倒れていくのか、その事実に大きな罪悪感を持っていたように思う。

 酒が入るとその話しばかりだった。

 私の親父はといえば、従軍できなかったことをどこか罪深いこととしてトラウマになっていたとすれば三男の叔父さんは死ねなかったことに罪深いものを感じていたのかも知れない。

 

 長男の叔父さんは哲学的だった。

 「もういいだろう○郎。いずれにしてもだ、戦争の記憶しか持っていないような俺たちは酒を飲むしかないということさ」と悟ったようにいう。

 三男の叔父さんも、

 「純坊、戦争はいかん。絶対にいかん。お前たちが同じことを経験しないよう祈るばかりだ」と締めくくるが、そんなときも私の父はずっと黙って座っていた。

 

 そんな親父が後年、Apple Store銀座(当時の名称)へiMacを買うから一緒に行ってくれというのでついていったことがある。

 買い物が終わり銀座の街に出ると父は珍しく若い頃の銀座の話を始めた。

 どうということはない、私よりずっと銀座に詳しかった。

 有楽町駅に向かうとき、そんな父がぽつりといった。

 「このあたりも空襲時にはな、沢山の死体が積み重なっていたんだ…」

 父も戦争で思い出したくない、あるいは言葉に出したくない多くのシーンを体験したことをそのとき嫌でも知ることとなった。

 

 

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