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起業前夜〜ライターとNIFTY-Serveのシスオペで表舞台に立つ

当時はインターネットなど我々の前にはなかったから最新情報を得るのは簡単ではなかったしソフトウェアやハードウェアの別はともかく新製品ひとつを手に入れるのも大変だった。何しろ日本に入荷しない製品も多かったから「MACWORLD」などの雑誌広告や記事を参考に米国のメーカーにバンクチェックを書留で送って新製品を買うという手段しかなかったしそれらは現在と違い大変高価だった。

 

当時私の活動としては盛んにMacのグラフィック関連の最新情報をMACLIFE誌に載せ、現在では考えられないほどまとまった額の原稿料をいただいたものの、例えばとあるビデオ画像の入力機器などは4,000ドルもしたわけで、収支だけを考えれば常に大きな赤字だった。しかし詭弁でなく金には代えられないエキサイティングな経験も多く...楽しかった。

 

さて、少々先走るが、もうひとつ活動の軸として1987年にサービスが開始されたパソコン通信のNIFTY-Serveのシスオペを任されたことが挙げられる。こちらも準備に数ヶ月かかり、会社の帰りにNIF社(ニフティ社の前身)に立ち寄って夜遅くまでミーティングを行うといったこともあったしサービスが開始されてからはとにかくメンテナンスを含めて時間を取られることは必定だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この「MACLIFEのライター」と「NIFTY-Serveのシスオペ」という役目の一番の効用は私の名前を多くの方々に知っていただいたことに尽きる。そして事実多くの同好の方たちと知り合えるきっかけとなった。

私はNIFTY-Serve開設以前にも我々は仲間たちと内輪だけのパソコン通信を楽しんでおり、それにおいても貴重な方たちと友好を深めるきっかけとなった。そうした仲間から生まれたカップルの仲人を仰せつかったこともあるほどだ。

 

現在と比較すればMacユーザーの数など知れたものだったがその多くは時間と費用を惜しみなくつぎ込む…という人たちだったことでもあり、私の「MACLIFE」の記事を読み、会社に数百万もする一式を導入したり、その可能性に賭けて新しい会社を立ち上げるといったことが毎月のように起こりえた時代だった。

 

そしてNIFTY-Serve上のやりとりを含め、当時は間違いなくMac関連...特にソフトウェアおよびグラフィック関連情報に関して私は誰よりも最新のそして詳しい情報を発信できていたことでもあり、メディアの取材はもとよりだが休祭日にも自宅にまでMacintoshのデモを見に来るデザイナーや会社役員の方々も多かったのである。さらに新聞社や雑誌編集部などからは「デジタル書斎」という観点から取材も目立った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

愉快なのは自宅に教えを請いに来た方が数ヶ月もすると最新のMacintoshシステム一式を売り物にしていかにも時代の寵児として雑誌等に登場されるのを私は苦笑して眺めていたものだ。なぜならある人のインタービューなどその内容の大半は私が当人に申し上げた話しの受け売りだったからだ(笑)。

「マッキントッシュ、持てば誰でもデザイナー」といった時代だった。

 

したがってウィークディの睡眠時間は毎日4時間を切っていたし、祝祭日のほとんども原稿書きや新製品のレビューに費やさなければならなかった。せっかくの夏休みや正月休みもそれらのミッションを仕上げるために潰してしまうという年月が長く続いた。いま思えばよく女房から苦情が出なかったものだ...。

 

そんな忙しい日々を送っていた1987年の春、技術評論社から電話が入った。同社は当時靖国神社近くにあり勤務していた会社から歩いて行ける距離だったこともあって求めに応じて早速編集部に出向くとそこに待っていたのは数ヶ月後にリリースされるというジャストシステム社のグラフィックソフト「花子」単行本執筆依頼だったのである。

 

当初は三ヶ月ほどの執筆期間があるという話しで数回の打ち合わせをしたが、結局「花子」の発売とタイミングを合わせて出版したいからと私に課せられた執筆期間は1ヶ月程度となってしまったのである。

それでも人生初めての単行本執筆の機会を逃したくないとその仕事を請け負うことにしたが問題はその執筆時間の確保である。それでなくとも睡眠時間がとれない時期だったこともあり100%プライベートで請け負うのは無理だと考えた私は勤務先の社長に掛け合い、その仕事を会社の仕事として受ける許可をもらった。

 

したがってこれで事務所にいるときにも時間があれば堂々と原稿書きができることになったのである。それにそもそもがやっつけ仕事の...それもMacではなくNEC PC-9801用のアプリケーションの書籍である。まあ売れても大したことはないとたかをくくっていたが、これが大きな間違いだった(笑)。

ともかく自前のPC-9801と編集部から貸し出してもらったマシンの2台を駆使し、1台で「花子」のベータ版を動かしながら一方の1台にインストールしたワープロで原稿を書くといった事を続けた。

 

そう、大きな間違いというのは出版された「花子」は私の思惑を見事に外し、日経誌にも紹介されたが3ヶ月連続でテクノロジー分野のベストセラーとなり、なんと発行部数は10万部を軽く超え13刷りも重版するはめになったからである。したがってその印税額はトータルで一千万円を超えたのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これが個人の契約ならその額が丸々私の懐に入ったわけだが、会社との契約にしたため「花子」の印税は一円たりとも私の益にはならなかった...。

ただし負け惜しみでなく、当時は自身の名前が印刷された単行本が出たそのことが嬉しかったし、結果として会社にMacintosh SEとLaserWriterを導入して貰い、かつ翌年サンフランシスコで開催したMACWORLD Expoに出向く費用を捻出してもらうことになっただけで十分満足だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その後時代といってしまえばそれまでだが、取引先だった雪印乳業の工場長から同社が開発したという機器のプロモーションビデオ制作を頼まれ、結果ビデオではなくMacintosh用のVideoWorks IIによるアニメーションを作ることになったり「MACLIFE」の記事をご覧になった企業からカラーアニメーションの試作依頼が舞い込むなど次第にパーソナルコンピュータ関連の仕事が増えてきたのだった。

 

また技術評論社以外の出版社からも「花子」の共著依頼があり、苦肉の策で昔使ったペンネームで原稿を書いたりもしたしMacintoshではなくPC-9801用のグラフィックソフト「Z’sSTAFF Kid 98」といった類の書籍執筆依頼なども多々舞い込んできた。

意を決した私は「情報企画室室長」という肩書きで名刺を作り、この種の依頼に正式に対応するべく社長を説得したが肝心の本業はますます覇気がなくなり、私にとってもパソコン関連の仕事で食えるものなら本業にしたいという気持ちが日々高まってきたのだった。

 

 

CompuServeアクセスガイド

NIFTY-Serveのフォーラムは前身のパソコンサービス、CompuServe日本語版を目指したものだった

電子書籍をテーマに月刊誌からの取材が多かった

電子書斎という視点が珍しかった1989年2月、月刊誌からの取材を受けた。表紙の女性が手にしている電話が時代を感じさせる

最初の単行本執筆は1987年6月1日初版「図形処理名人 花子」だった

1987年6月1日初版となった初めての書籍はベストセラーとなった

勤務先に導入したMacintosh SEとLaserWriter

花子の印税で勤務先にMacintosh SEとLaserWriterを導入してもらった

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